箱根駅伝にハマッたきっかけ
元々箱根駅伝はテレビでなんとなく見ていたけど、選手の名前は有名ランナーを除いてほとんど知らないくらいでした。
きっかけは1995年、この年初めて箱根駅伝に前哨戦となる大会があることに気付きました。11月の全日本大学駅伝。この年の全日本は早大の渡辺康幸選手が最終区間で逆転優勝をした大会として有名ですが、アンカー以外でも見所の多くある大会でした。
まず1区から凄かった。早大はここにエース格の小林雅幸選手を投入。当時早大と双璧の強豪だった山梨学院大などをドンドン引き離します。小林選手に食らいついていったのは亜細亜大のトゥーラ選手のみでしたが後半には振り切られる。アフリカ人選手を相手に常に前を引き続け、力でねじ伏せた小林選手のインパクトは凄かった。
2区では中大の榎木選手が追撃し、3区、4区では中大がトップに立ち早大を引き離します。
5区ではそれまで目立たなかった神奈川大が一気にトップまで追いついてきました。神奈川大は箱根駅伝では中位のイメージだったので驚きました。当時は早大、山梨学院の2強がそれ以外のチームに負けるなんて想像も出来ない時代だったから中大と神奈川大の躍進にはワクワクさせられました。
レースはこの後もダイナミックに動き、6区では中大が神奈川大を1分も引き離し単独の首位に立ち、7区では神奈川大が逆襲して一気にトップを奪います。
そしてアンカー8区。先頭は神奈川大の重田選手。同タイムの2位でスタートしたのは中大の松田選手。その1分31秒後に3位の早大の渡辺康幸選手。まず中大が神奈川大を軽く突き放し単独のトップに立ちます。しかし、ゴールまで残り僅かというところで、猛追してきた早大の渡辺選手が中大の松田選手に追いつき、ゴール数百メートル手前で鮮やかなスパートで突き放して優勝をさらいました。
早大の渡辺選手の走りのインパクトも凄かったけど、ゴール後の悔しそうな姿が印象的だった中大の松田選手も心に残りました。
大会が終わってしばらくたった頃、本屋で陸上競技の雑誌を発見しました。その雑誌には先日の全日本大学駅伝の記録表や記事も載っていて、特に興味をひいたのはアンカー区間での個人タイムでした。
逆転した早大の渡辺選手は56分59秒、勝負に敗れた中大の松田選手は58分43秒。そして4連覇を達成した早大の過去3年間の個人タイムも載っていました。そこには箱根駅伝でも名前をきいたことのある選手がアンカーを勤めていました。花田勝彦選手58分07秒区間1位、櫛部静二選手60分07秒区間4位、こういったタイムと区間順位を目にし、再びこの年(95年)の記録表を見ると、なにかテレビで見たときとは違う感覚を感じました。
中大の松田選手の58分43秒って相当に凄い記録なのではないか?と。テレビ的には、圧倒的に早い渡辺選手にただ抜かれただけの引き立て役に見えてしまったけど、実は中大の松田選手はこの区間の23人のランナーの中で区間3位という成績でした。しかも区間2位は山梨学院の留学生マヤカ選手だったので、松田選手は日本人の中では2番でした。この事実には驚かされました。
もうひとつ驚かされたのは神奈川大の重田選手。中大の松田選手にも軽く突き放されて、弱い選手というイメージしかなかったけど、重田選手も日本人選手の中では5番の好成績でした。
テレビでは1流の渡辺選手が2流3流の選手を追い抜いていくように見えてしまったけど、それはとんでもない誤解だった。神奈川の重田選手は1流で、中央の松田選手は超1流でした。そんな2人を相手に格の違いを見せつけたのが渡辺選手でした。雑誌を立ち読みしてこの事実を知ったときの驚きは言葉では言い表せないほどだった。テレビでは伝わらない駅伝の真実を知りました。
それまで駅伝と言えばマラソンをちょっと複雑にしたような物と思っていたけど、ダイナミックに動くレース展開という表面的な面白さと、テレビでは伝わりにくいその裏に隠された面白さ、その両方を知ってしまい駅伝に非常に興味がわきました。
私は近くのダイエーの家電コーナーに向かいビデオテープを購入しました。2ヵ月後の箱根駅伝を録画するために。それまで大のアニメオタクとして過ごしてきた私は、アニメを見ることが唯一にして最大の趣味でしたが、そこに駅伝を録画して繰り返し見るという、一般人にはさらに理解し難い趣味が加わった瞬間でした。
(補足)
上記の全日本大学駅伝95年大会についての文は、10数年前に1度だけ見たTV放送の記憶と、「日本学生陸上競技70年史」という資料を元にして書いています。
記憶が曖昧なので間違いもあると思いますが、一つ発見したのでここに記載します。
陸マガ増刊の「大学駅伝2014秋号」によると、渡辺選手がスパートしたのは18.6kmとの事ですから、ゴール前の1.1km前という事になります。文中の「数百メートル手前」は間違いです。
ちなみに、日本学生陸上競技70年史には、19km手前という表現がされていました。